石油化学工業に取材するにしても、アテはありませんでした。
まずはできることを、と、新聞資料集めからはじめました。
スマホやパソコンがない時代でしたので、リサーチは図書館が頼りでした。
図書館で朝日、毎日、読売、日経、産経各社が出した1年分の
バックナンバーを調べ、関係する記事をコピーしては切り抜いて
専用の冊子に貼る。
これを繰り返し、約半月かけて3冊の冊子を作り、
改善の提案書も作りましたました。
作業の間にふと、取材の”ツテ”が浮かびました。
父の古くからの親友に、石毛郁次(いくじ)さんという方がいました。
石毛さんは、現在の三井化学の前身である「三井東圧化学」の会長をされていました。
私が中学の頃には、毎年お正月に石毛さんのお宅へ家族で挨拶に行き、
初めて就職した時には保証人になって頂きました。
父親が76歳のとき、ガンを患い余命宣告を受けて入院していた時も
石毛さんは度々お見舞いにきてくれていました。
まず、石毛さんに相談してみようと、
秘書課へ電話すると「すぐにいらしてください」という返事を頂きました。
立派な応接室に通され、石毛さんへ挨拶を終えると
私は作った冊子を見せながら世論の動向を説明し、
石油化学業界がするべきことの提案書を見せました。
最後までじっと黙って聞いていた石毛さんは
私の話しが終わると、椅子から立ち上がりデスクの電話をとって
誰かと話し始めました。
受話器を置くと
「会長の岩永君がその問題をやっとるから直ぐ行け」
と伝えられました。
彼はすぐさま秘書を呼び、私に行き方を案内させました。
電話の先は、岩永巌さんという三井石油化学工業の社長さんでした。
岩永さんは石油化学工業協会の会長でもあり、いわゆる業界でもトップの方です。
案内の通りに向かうと、そのまま社長室に通されました。
石毛さんの時と同じように、冊子を見せながら提案書の説明しました。
すると、
「今、その問題のワーキンググループを作って議論しているところだ。
リーダーの清水君に連絡しておくから彼に話しなさい」と
連絡先を教えてくれました。
清水君とは三菱油化の広報課長をしている清水喬夫さんでした。
三菱油化はコンビナートの操業をメインとした会社で
石油化学製品の生産力を大きく上げていました。
会社に電話をし、指定された夕方頃に伺うと、
すでに社員の多くが帰宅しており事務所はガラーンとしていました。
清水さん本人が出迎えてくれ、案内された応接間で
私はその日、3回目のプレゼンを始めました。
さすがにワーキンググループのリーダーだけに
ツボを抑えた質問があり、意見を熱く交わしたことを覚えています。
夜の9時頃まで議論して
「これから、いいでしょ」とそのまま飲み屋に連れていかれました。
お店へ入ると、先に誰かが待っているようでした。
待っていたのは、野呂さんという
工業連盟が契約しているPR会社の担当者でした。
初対面なのに三人は気が合って、談論風発の盛り上がりで
飲みながらも野呂さんが、私が作った冊子を何度も開いて見て、
内容について意見を交わし合いました。
最後に、翌々日に行なわれるワーキンググループの会議に
オブザーバーとして出席することが決まりました。
そして、当日は冊子を忘れないように、と約束をして
深夜のタクシーに乗せられたのです。
この会議への参加がきっかけで、
プラスチック廃棄物だけでなくごみ問題全体に関り、
日本だけではなく、ヨーロッパとアメリカのごみ問題を撮影することになり、
20年間も関わるようになるとは、予想もしませんでした。
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